前方後円墳の名付け親 蒲生君平

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栃木県庁裏にある蒲生君平を祀った蒲生神社。市内屈指の規模を誇る前方後円墳 御蔵山古墳に隣接して建てられている。蒲生君平前方後円墳の名付け親として有名であるが、その人生を知る人は少ないのではないだろうか?

 

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蒲生君平は江戸時代後期の儒学者で、荒廃した天皇陵を調査し、山陵志を編述したことで知られる。同時代の仙台藩林子平上野国郷士高山彦九郎と共に"寛政の三奇人"の一人にも数えられる。なお、君平は字で、諱は秀実。明和5年(1768年)、下野宇都宮新石町にて、油商の次男として生まれた。祖母から祖先が蒲生氏郷と聞かされ、学問を志したとされる。寛政7年(1795年)には、ロシア軍艦の出現のおり、北辺防備を憂い、陸奥へ旅に出ている。翌年の寛政8年(1796年) より山陵志を編述のため京都を訪れ、寛政12年(1800年)までに歴代天皇陵を踏査。その後、江戸駒込に塾を構えて、享和元年(1801年)山陵志を完成させている。文化10年(1813年)江戸にて赤痢のため46歳で病没。その晩年は貧困との戦いであったという。山陵志の編述の理由としては、皇室至上主義によるものではなく、対外的危機が迫る時代のなかで、国家のあり方を模索した営みであったとされる。君平はこの山陵志のなかで、山陵(天皇や皇族のお墓)は死者を運ぶ車をかたどったものと考え、四角い部分を車を引く取っ手の部分として"前"、丸い部分は柩を乗せる台座の部分として、"後"と考え、このような形を"前方後円"と呼んでいる。

なお、君平はその後、意外なかたちで故郷 宇都宮藩を救うことになる。死から50年ほど後、幼少ながら尊王の志に篤かった宇都宮藩主 戸田忠恕は、藩と縁のある儒学者 大橋訥庵が坂下門外の変に大きく関わっていたこともあり、譜代大名ながら幕府に目を付けられる存在となってしまった。これを打開をすべく、郷土の賢人に倣い歴代天皇陵の修補を幕府に建白し、各地の山陵を調査し、修繕にあたっている。元治元年(1864年)に水戸天狗党が起きた際、その対応や藩内から天狗党に加わるものが出たことなどを強く責められ、なんと、陸奥棚倉への移封を命ぜられてしまう。しかし、山陵奉行の功による朝廷からの周旋により、忠恕は無事本領安堵された。君平の志が藩を救ったのである。