ちばの縄文 貝塚からさぐる縄文人のくらし 千葉県立中央博物館

台風の近くなか、あいにくの天気ではあったが、本日から開催された中央博物館企画"ちばの縄文 貝塚からさぐる縄文人のくらし"に行ってきた。加曽利貝塚をはじめ、県内には多くの貝塚があり、その数は日本一を誇る。県内出土の優品も数多くあるが、東京に近いこともあり、多くの研究者や収集家により分散してしまっているのも事実である。今回、全国から県内出土の優品たちが一堂に会する。市川市在住だった杉原壮介が所蔵していた姥山貝塚出土土器、辰馬考古資料館所蔵の余山貝塚出土土偶、良文貝塚出土の香炉形顔面付土器、幸田貝塚出土の土器など重要文化財級の遺物が所狭しと展示。

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さらに、山内清男氏の土器編年表を県内出土土器で展示されていたり、昨年、初公開された雷下遺跡の日本一古い丸木舟などとにかく見応えのあるものばかり。

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そんななかでも、素晴らしかったのは、千葉のアマチュア考古学者 染谷大太郎氏に関するもの。観古帖と題されたノートにはとても素人とは思えない精巧なスケッチが記載されており、その特徴をあますところなく記載されていた。さらに、出土地を記載のうえ拓本にて土器の文様を記録している。明治半ばの時代に、一地方の農家の名主が坪井正五郎の名前でではあるが、論文(下総國手賀沼近傍の古物遺跡 附たり染谷大太郎氏の篤志 坪井 正五郎)まで残している。しかも、発掘したものを自らが蒐集するのではなく、帝大などに寄贈しているという。その考古学における先見性とその人柄に触れた思いがして、展示のガラスケース前にしばらく立ち尽くしてしまった。

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前方後円墳の名付け親 蒲生君平

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栃木県庁裏にある蒲生君平を祀った蒲生神社。市内屈指の規模を誇る前方後円墳 御蔵山古墳に隣接して建てられている。蒲生君平前方後円墳の名付け親として有名であるが、その人生を知る人は少ないのではないだろうか?

 

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蒲生君平は江戸時代後期の儒学者で、荒廃した天皇陵を調査し、山陵志を編述したことで知られる。同時代の仙台藩林子平上野国郷士高山彦九郎と共に"寛政の三奇人"の一人にも数えられる。なお、君平は字で、諱は秀実。明和5年(1768年)、下野宇都宮新石町にて、油商の次男として生まれた。祖母から祖先が蒲生氏郷と聞かされ、学問を志したとされる。寛政7年(1795年)には、ロシア軍艦の出現のおり、北辺防備を憂い、陸奥へ旅に出ている。翌年の寛政8年(1796年) より山陵志を編述のため京都を訪れ、寛政12年(1800年)までに歴代天皇陵を踏査。その後、江戸駒込に塾を構えて、享和元年(1801年)山陵志を完成させている。文化10年(1813年)江戸にて赤痢のため46歳で病没。その晩年は貧困との戦いであったという。山陵志の編述の理由としては、皇室至上主義によるものではなく、対外的危機が迫る時代のなかで、国家のあり方を模索した営みであったとされる。君平はこの山陵志のなかで、山陵(天皇や皇族のお墓)は死者を運ぶ車をかたどったものと考え、四角い部分を車を引く取っ手の部分として"前"、丸い部分は柩を乗せる台座の部分として、"後"と考え、このような形を"前方後円"と呼んでいる。

なお、君平はその後、意外なかたちで故郷 宇都宮藩を救うことになる。死から50年ほど後、幼少ながら尊王の志に篤かった宇都宮藩主 戸田忠恕は、藩と縁のある儒学者 大橋訥庵が坂下門外の変に大きく関わっていたこともあり、譜代大名ながら幕府に目を付けられる存在となってしまった。これを打開をすべく、郷土の賢人に倣い歴代天皇陵の修補を幕府に建白し、各地の山陵を調査し、修繕にあたっている。元治元年(1864年)に水戸天狗党が起きた際、その対応や藩内から天狗党に加わるものが出たことなどを強く責められ、なんと、陸奥棚倉への移封を命ぜられてしまう。しかし、山陵奉行の功による朝廷からの周旋により、忠恕は無事本領安堵された。君平の志が藩を救ったのである。

しもつけ型石棺型石室

栃木県の南部、思川および田川水系に6世紀中葉から7世紀にかけて築造された大型古墳にある一定の地域性が認められ、しもつけ型古墳と称されている。その特徴は、①墳丘の一段目に低平で幅広い、いわゆる基壇をもつ。②前方部に石室をもつ。③凝灰岩切石を用いた横穴式石室を内部主体とする。と定義されている。この共通の形式の採用には首長層のきわめて強い繋がりが想定されている。なかでも横穴式石室は出雲東部に特有の石棺型石室と極めて類似しており、何らかの政治的な接触が予察されるという。また、床石の有無などから伯耆や肥後との類似性も指摘されているそう。今回、石室や石材が露呈している場所をいくつか訪れてみた。

 

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まず、訪れたのは、上三川かぶと塚古墳。ここは45mほどの円墳であるが、今は墳丘はなく、出雲の石棺型石室によく類似したくり抜き式の羨門と玄門をもつ石室が露呈している。床石こそ1枚岩ではないものの、河原石と砂利を敷き詰め粘土で固めていたことが分かっている。天井石は盛り土で見えなくなるにも関わらず、蒲鉾形に仕上げており、石棺を強く意識していることなども推察できた。

 

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次いで、訪れた上三川愛宕塚古墳。直径40mほどの円墳であったそうだが、戦前に忠霊塔建設に伴い、公園内に石室は移築復元されている。このため、ここも露呈した石室を見ることができる。かぶと塚古墳よりやや小振りながら、側壁や奥壁は1枚の大型凝灰岩切石により作られ、見事に加工されたくり抜き式玄門をもち、典型的なしもつけ型石棺型石室といえよう。

 

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以前に訪れた栃木県最大の前方後円墳である吾妻古墳。6世紀後半築造で、全長127mのしもつけ古墳群の盟主墳である。ここは典型的しもつけ型古墳であり、基壇を有し、石室も前方部にあったという。幕末期に壬生藩主 鳥居氏により庭石とするため、横穴式石室の玄門と天井石が壬生侯隠居所(町内上稲葉赤御堂地区)まで持ち出されたという。現在はこれらは壬生城址に移設され保管されている。この横穴式石室であるが、石棺型石室の形態をとるも、玄門と羨門のみが凝灰岩の切り抜きであるが、天井石も含めその他の石材は凝灰岩ではなく、硬質の天然石である閃緑岩により築かれていたという。石室の強度を意識したためなのか?それとも、別の理由があるのだろうか?写真では伝わりにくいのだが、玄門石は縦 270cm、横 190cm、暑さ 50cmと県内最大の前方後円墳の石室の石材に相応しい堂々としたものであった。また、城址公園内には壬生町歴史民俗資料館があり、富士山古墳出土の日本最大級の家形埴輪なども展示されているが、残念ながら写真は禁とのこと。

なお、最後の藩主となった鳥居忠宝の名誉のために補足。鳥居氏は"三河武士の鏡"と称えられた名将 鳥居元忠を祖とし、忠宝は幕末の混乱期、勤王派と保守派とが二分する藩内をまとめ、戊辰戦争では新政府側に与し、版籍奉還後は知藩事を務めている。また、隠居後は職を失った士族のため製茶工場を設立し、海外にまで輸出をしたという。

 

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最後に、上石橋愛宕塚古墳。ここは昭和47年に東北新幹線の建設により姿を消した全長84mと国内でもかなり大型の円墳であり、造出しをもついわゆる帆立貝形であったことも後の調査で判明している。主体部はしもつけ型石棺型石室で、ここの石室に使われていた石材の一部が近くにある下石橋愛宕神社に移築保存されている。側壁と奥壁などであろうか?大型で厚い凝灰岩切石の石材の数々を見ることができた。石材のみをこうしてしみじみとみるとしもつけ型石棺型石室とはどういうものなのか?何となく分かった気がした。

模様積み横穴式石室

伊勢塚古墳は群馬県藤岡市の白石古墳群にあり、七輿山古墳のすぐ北側に位置する6世紀後半に築造された直径27mの円墳(一説に、八角墳とも)で、南側に横穴式石室が開口している。両袖式の横穴式石室は模様積みと呼ばれる藤岡のほか、埼玉県本庄市周囲のみしかない特徴的な石室である。模様積みは、小規模の円墳にほぼ限られ、多くは両袖の胴張りで、"壁面はモザイク状の大きい石材が散在し、お互いに接することなく、この間を小石材で充填している。"と定義されるそう。おおよそ100基ほど存在したそうだが、石室がほぼ完全に遺存するのは藤岡市内の4基のみ。内部に入り、見学ができるところはここのみ。壁面に視覚的効果を持たせたことが最大の特徴とされる。その見事な石組みを前に、ふと、思った...。

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古墳時代の中期までと後期での違いとして、副葬品の変化、築造される場所や墳丘の形状などもあるが、なんと言っても、横穴式石室の出現が挙げられる。この横穴式石室というものに何か不思議な魅力を感じる古墳好きは多いのではないだろうか?

横穴式石室は大陸から入ってきた技術の一つであるのだが、この技術により古墳自体の持つ意味が根本から変化していく。横穴式石室以前は、粘土槨や礫槨であれ、竪穴式石室であっても、古墳を築造時に主体部が作られて、ほぼ同時期に埋葬されていた。それが、横穴式石室の出現により追葬が可能となる。古墳は一代限りのものでなく、氏族の墓域へと変化していく。その後、律令制期に横口式石槨の導入による再び個人の墓への変化なども経て、仏教の伝来と普及により、古墳時代は終わりを告げるが、この横穴式石室という技術導入は考古学的知見からみても古墳時代における最も大きな変化であったといって過言ではないだろう。
横穴式石室の導入により、死生観は大きく変わったことが考古学的遺物からも実証されている。飲食器埋納(おそらくは食物供献儀礼と推測。)や閉塞部で行われた幽明境を異にすることを宣言する儀礼であるコトドワタシの遺構などが良い例であろう。
ここで、追葬について考えてみる。古墳時代にも、照明がないわけではないのだろうが、現代のようにスイッチ一つで簡単に照らす訳にはいかない。当然、仏教伝来以降の終末期の一部を除き、火葬はされてない。もがりである。漆黒の闇の中に祖先たちか眠る横穴式石室こそが、まさに当時の"黄泉の国"もしくは、その入り口であったのではないだろうか。追葬のため横穴式石室を再び開ける時というのは、どういう風であったのであろう。古事記では、イザナキが禁を破って、櫛の歯を折って火を灯し、黄泉の御殿を覗いてしまう有名な場面がある。そこには愛する妻の腐乱し変わり果てた姿があった。恥をかかされたイザナミはイザナキを詰り、追うが、イザナキは桃の実を投げて逃げ切り、黄泉比良坂を大きな岩で塞いだとある。
因みに、芦原の中つ国に戻ったイザナキが禊をし、その際に生まれたのが、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲの三柱の神である。
未盗掘の石室の出土状況を見ていくと追葬時に以前の副葬品を無造作に押し除けて、棺や副葬品を埋葬しているように思えるものが多い。追葬の際は松明などを使うことはなかったのだろうか?築造時には墳丘と合わせて石室も積み上げられていくが、天井石を置き、墳丘が完成するとなかは暗闇に閉ざされる。なお、積まれた石の一つ一つを注意深く観察していくと、広域な地域交流やその系譜などもみえてくる。石材の採石場所にもこだわりが見えてくるし、時代を追うごとに、石材自体も大型化し、あたかも元々設計図があるが如く予め加工された石材を用いたものまで出現する。
玄室にて、懐中電灯の電源を切ってみると羨道から光が漏れてきて、薄らと玄室の石材を照らす。古墳がそして横穴式石室が当時の人々にとってどのような場所であったのであろうか?手を合わせ、目を閉じて、被葬者たちに敬意を表しつつ、少しだけこの時代における、黄泉の国や死生観などに想いを馳せた...。