しもつけ型石棺型石室

栃木県の南部、思川および田川水系に6世紀中葉から7世紀にかけて築造された大型古墳にある一定の地域性が認められ、しもつけ型古墳と称されている。その特徴は、①墳丘の一段目に低平で幅広い、いわゆる基壇をもつ。②前方部に石室をもつ。③凝灰岩切石を用いた横穴式石室を内部主体とする。と定義されている。この共通の形式の採用には首長層のきわめて強い繋がりが想定されている。なかでも横穴式石室は出雲東部に特有の石棺型石室と極めて類似しており、何らかの政治的な接触が予察されるという。また、床石の有無などから伯耆や肥後との類似性も指摘されているそう。今回、石室や石材が露呈している場所をいくつか訪れてみた。

 

f:id:reiwa_kofun:20200319201420j:image

まず、訪れたのは、上三川かぶと塚古墳。ここは45mほどの円墳であるが、今は墳丘はなく、出雲の石棺型石室によく類似したくり抜き式の羨門と玄門をもつ石室が露呈している。床石こそ1枚岩ではないものの、河原石と砂利を敷き詰め粘土で固めていたことが分かっている。天井石は盛り土で見えなくなるにも関わらず、蒲鉾形に仕上げており、石棺を強く意識していることなども推察できた。

 

f:id:reiwa_kofun:20200319201454j:image

次いで、訪れた上三川愛宕塚古墳。直径40mほどの円墳であったそうだが、戦前に忠霊塔建設に伴い、公園内に石室は移築復元されている。このため、ここも露呈した石室を見ることができる。かぶと塚古墳よりやや小振りながら、側壁や奥壁は1枚の大型凝灰岩切石により作られ、見事に加工されたくり抜き式玄門をもち、典型的なしもつけ型石棺型石室といえよう。

 

f:id:reiwa_kofun:20200319201541j:image

以前に訪れた栃木県最大の前方後円墳である吾妻古墳。6世紀後半築造で、全長127mのしもつけ古墳群の盟主墳である。ここは典型的しもつけ型古墳であり、基壇を有し、石室も前方部にあったという。幕末期に壬生藩主 鳥居氏により庭石とするため、横穴式石室の玄門と天井石が壬生侯隠居所(町内上稲葉赤御堂地区)まで持ち出されたという。現在はこれらは壬生城址に移設され保管されている。この横穴式石室であるが、石棺型石室の形態をとるも、玄門と羨門のみが凝灰岩の切り抜きであるが、天井石も含めその他の石材は凝灰岩ではなく、硬質の天然石である閃緑岩により築かれていたという。石室の強度を意識したためなのか?それとも、別の理由があるのだろうか?写真では伝わりにくいのだが、玄門石は縦 270cm、横 190cm、暑さ 50cmと県内最大の前方後円墳の石室の石材に相応しい堂々としたものであった。また、城址公園内には壬生町歴史民俗資料館があり、富士山古墳出土の日本最大級の家形埴輪なども展示されているが、残念ながら写真は禁とのこと。

なお、最後の藩主となった鳥居忠宝の名誉のために補足。鳥居氏は"三河武士の鏡"と称えられた名将 鳥居元忠を祖とし、忠宝は幕末の混乱期、勤王派と保守派とが二分する藩内をまとめ、戊辰戦争では新政府側に与し、版籍奉還後は知藩事を務めている。また、隠居後は職を失った士族のため製茶工場を設立し、海外にまで輸出をしたという。

 

f:id:reiwa_kofun:20200319201655j:image
最後に、上石橋愛宕塚古墳。ここは昭和47年に東北新幹線の建設により姿を消した全長84mと国内でもかなり大型の円墳であり、造出しをもついわゆる帆立貝形であったことも後の調査で判明している。主体部はしもつけ型石棺型石室で、ここの石室に使われていた石材の一部が近くにある下石橋愛宕神社に移築保存されている。側壁と奥壁などであろうか?大型で厚い凝灰岩切石の石材の数々を見ることができた。石材のみをこうしてしみじみとみるとしもつけ型石棺型石室とはどういうものなのか?何となく分かった気がした。