模様積み横穴式石室

伊勢塚古墳は群馬県藤岡市の白石古墳群にあり、七輿山古墳のすぐ北側に位置する6世紀後半に築造された直径27mの円墳(一説に、八角墳とも)で、南側に横穴式石室が開口している。両袖式の横穴式石室は模様積みと呼ばれる藤岡のほか、埼玉県本庄市周囲のみしかない特徴的な石室である。模様積みは、小規模の円墳にほぼ限られ、多くは両袖の胴張りで、"壁面はモザイク状の大きい石材が散在し、お互いに接することなく、この間を小石材で充填している。"と定義されるそう。おおよそ100基ほど存在したそうだが、石室がほぼ完全に遺存するのは藤岡市内の4基のみ。内部に入り、見学ができるところはここのみ。壁面に視覚的効果を持たせたことが最大の特徴とされる。その見事な石組みを前に、ふと、思った...。

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古墳時代の中期までと後期での違いとして、副葬品の変化、築造される場所や墳丘の形状などもあるが、なんと言っても、横穴式石室の出現が挙げられる。この横穴式石室というものに何か不思議な魅力を感じる古墳好きは多いのではないだろうか?

横穴式石室は大陸から入ってきた技術の一つであるのだが、この技術により古墳自体の持つ意味が根本から変化していく。横穴式石室以前は、粘土槨や礫槨であれ、竪穴式石室であっても、古墳を築造時に主体部が作られて、ほぼ同時期に埋葬されていた。それが、横穴式石室の出現により追葬が可能となる。古墳は一代限りのものでなく、氏族の墓域へと変化していく。その後、律令制期に横口式石槨の導入による再び個人の墓への変化なども経て、仏教の伝来と普及により、古墳時代は終わりを告げるが、この横穴式石室という技術導入は考古学的知見からみても古墳時代における最も大きな変化であったといって過言ではないだろう。
横穴式石室の導入により、死生観は大きく変わったことが考古学的遺物からも実証されている。飲食器埋納(おそらくは食物供献儀礼と推測。)や閉塞部で行われた幽明境を異にすることを宣言する儀礼であるコトドワタシの遺構などが良い例であろう。
ここで、追葬について考えてみる。古墳時代にも、照明がないわけではないのだろうが、現代のようにスイッチ一つで簡単に照らす訳にはいかない。当然、仏教伝来以降の終末期の一部を除き、火葬はされてない。もがりである。漆黒の闇の中に祖先たちか眠る横穴式石室こそが、まさに当時の"黄泉の国"もしくは、その入り口であったのではないだろうか。追葬のため横穴式石室を再び開ける時というのは、どういう風であったのであろう。古事記では、イザナキが禁を破って、櫛の歯を折って火を灯し、黄泉の御殿を覗いてしまう有名な場面がある。そこには愛する妻の腐乱し変わり果てた姿があった。恥をかかされたイザナミはイザナキを詰り、追うが、イザナキは桃の実を投げて逃げ切り、黄泉比良坂を大きな岩で塞いだとある。
因みに、芦原の中つ国に戻ったイザナキが禊をし、その際に生まれたのが、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲの三柱の神である。
未盗掘の石室の出土状況を見ていくと追葬時に以前の副葬品を無造作に押し除けて、棺や副葬品を埋葬しているように思えるものが多い。追葬の際は松明などを使うことはなかったのだろうか?築造時には墳丘と合わせて石室も積み上げられていくが、天井石を置き、墳丘が完成するとなかは暗闇に閉ざされる。なお、積まれた石の一つ一つを注意深く観察していくと、広域な地域交流やその系譜などもみえてくる。石材の採石場所にもこだわりが見えてくるし、時代を追うごとに、石材自体も大型化し、あたかも元々設計図があるが如く予め加工された石材を用いたものまで出現する。
玄室にて、懐中電灯の電源を切ってみると羨道から光が漏れてきて、薄らと玄室の石材を照らす。古墳がそして横穴式石室が当時の人々にとってどのような場所であったのであろうか?手を合わせ、目を閉じて、被葬者たちに敬意を表しつつ、少しだけこの時代における、黄泉の国や死生観などに想いを馳せた...。